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コミュニケーションBLOG

人間関係を楽にしてみませんか?

初めてのお産は安産じゃなかった

健康と病気

 

大きなお腹をなでながら横たわっている外国の外国の女性

31歳の初産。誰もが安産を信じて疑わなかった。ところが、陣痛促進剤で、子宮口9cmまで開大させられて痛みを味わった末に、まさかの帝王切開。お産は何があるかわからない。

なかなか妊娠できなかった5年間

ダーリンと知り合って6年目に結婚。すぐに子どもを3人生んで仕事を続けるつもりだった。なのに、結婚して5年間まったく妊娠せず。周囲の人たちには、会うたびに「お子さん、まだなの?」「いつまで遊んで暮らしてるんだ」などなど言われ続けましたね。

基礎体温表をつけていたので、ちゃんと排卵は確認できてたのに。簡単には命中しなかった(笑)不妊外来も考えたけど、フルタイムで看護師をやりながら通う自信はなかったの。ダーリンの検査は、考えもしなかった。夫婦ともに異常がなくても、頸管粘液不適合とかもあるから。それでも、欲しい、欲しいと願い続けた5年間。

参考:精子を通せんぼ?精子と頸管粘液の不適合による不妊症 | 妊娠したい人 集まれ!『妊活塾』

突然、上司が癌で入院した

結婚の1年前に、札幌から今の職場に転職。まだ若くて年齢は下から3番目だった。楽しく働いていた6月のある日、突然婦長さんが爆弾宣言。

「来月、入院します。明日からは自宅療養で休みます」

みんなビックリ!そして、更にビックリする発言が。

「わたしが不在中は、はたさんに任せます。勤務表も作ってもらいます」

そんなこと事前に何の相談もなかったよ~。ヒラで下から3番目のわたしが!?母親みたいな年上の10年超選手がうようよいるのに。大ブーイングの嵐。

孤軍奮闘

わたしが勤務表を作って病棟管理することに抵抗した古株の准看護婦は、スタッフ全員を見方につけてわたしへの嫌がらせ全開モード。口をきかないのはもちろんのこと、そっぽを向いて目も合わせない。挨拶も返事もしない。申し送りをしているときも、仕事をしているときも、とにかく敵意むき出しで無視。

それでも、わたしは間違った管理はしていないし、嫌がらせに屈するのは絶対にイヤだった。泣かない。困った顔をしない。挨拶はわたしから元気にする。平気な態度に徹した。

家では、ダーリンがこんなことを言ってくれたの。

「世界中のみんなが敵になっても、俺だけはりょうこの味方だよ!」

毎日の職場が針のむしろ状態で、子作りどころじゃなくなった。そうこうするうちに2ヵ月もしないうちに、妊娠した。婦長さんが入院している札幌の斗南病院の産婦人科に通うことになった。そこの小児科に看護学校の同期の仲よしが勤務していたので安心だった。そして、JR1本で通えるから決めた。「お産の神様」と呼ばれている先生がいて、不妊治療の実績がある病院。

お腹の子どもも、ダーリンと一緒にわたしを応援してくれた♪健診ついでに婦長さんの所へ寄ると「やりにくかったら、主任の辞令をだしてもらいましょうか?」と、わたしを気遣ってくれた。でも、「大丈夫です」と断った。権力を振りかざしたところで、誰もそんなものに巻かれるわけがない。余計に風当たりが強くなるだろう。

突然の和解

ずっと無視され続けていたある日。リーダー格の準看さんが、わたしに言った。

「あんた、根性あるね」

それ以来、毎日わたしにベッタリになってしまった。夫のこと、姑の悪口、実母の心配、編み物のこと、料理や漬物のこと、とにかく一から十まで話が止まらない。彼女に従っていたスタッフも全員、若造のわたしを認めてくれた。みんな仲よし。

婦長さんは、8月にあっという間に旅立って逝った。47歳、独身。自覚症状があったにもかかわらず、ギリギリまで病院へ行かずに末期を迎えていた。

突然の曾祖母の死

あと1週間で産休に入る頃。ダーリンの父親が胃癌だと診断され、北大病院に入院させた。母親は腰椎症で整形外科に入院中。ばあちゃんが一人で留守番だったので、産休に入ったら、しばらく同居する予定だった。80歳を過ぎて、元気にパチンコに通っていたのに。

夜の8時頃、お風呂に入って寝る前に突然倒れた。救急車で地元の病院に運ばれたが、翌朝札幌の東徳洲会病院に転搬送。わたしが病院へ駆けつけたとき、まだ必死に治療されていたが、すでに足の裏が死んでいた。持病の腹部動脈瘤破裂。人工呼吸器を外す相談がなされ、お昼前に死亡が確認された。

そのため、産休の前から誰もいない実家の留守番をすることになった。ばあちゃんの遺骨を守る。ダーリンは24時間勤務なので、その間はわたしひとりぼっち。寂しくはないし、怖くもない。仏間の隣の和室を寝室にした。

予定日を超過して

出産予定日には生まれず。その間に、ばあちゃんの四十九日を無事に終わらせることができた。義父の手術も無事に済んだ。義母も症状が軽快して、手術せず終わった。ふたりともまだ外泊という形での四十九日だった。

産科の健診で、子宮口が固いまま2cm開いていた。そこを医師が指でグリグリ広げた。痛いのなんのって、いきなりそれはないだろう。果たして、翌朝6時頃から陣痛が始まった。しばらく様子を見てから病院へ電話。入院してくださいとのこと。ダーリンが9時過ぎに帰宅してから、病院へ向かう。

陣痛促進剤と分娩監視モニター

入院すると、さっそく剃毛・浣腸などの処置が進められていく。そして、陣痛促進剤の点滴をされた。午後には分娩室に移動。分娩監視モニターでは、まだまだ陣痛が弱いという。なのに恥骨が割れそうな激痛。時計の秒針をにらみながら、必死に痛みに耐える。このとき、助産師さんのいない間は、点滴のクランプに手が伸びた。点滴を止めようとする本能的な衝動を、理性が死に物狂いで抑える。これほどの痛みが、どうしてモニターに反映しないのだ?だって、子宮口は9cmまで開いたのに?10cmで全開で出産だよ。児頭も下がらず、鉗子分娩や吸引分娩のことを考えていた。

そうこうするうちに、あまりの激痛でわたしが消耗したため、胎児の心音が低下してきた。

「帝王切開に切り替えます」

『看護師は、こらえ性がないんだから』という心の声が大きく響いた。たしかに、モニター上の波形は大したことはなかったのだろう。その原因は、あとでわかった。

手術室へ

陣痛促進剤を中止し陣痛を和らげる注射をされて、嘘のように激痛から解放された。ほどなく手術室へ移動。腰椎麻酔でお腹にメスが入る。

「痛い!」

麻酔が効いていない。導尿のための消毒が粘膜にしみてたし。それでも、容赦なくメスを入れる医師。痛みで筋肉が硬直していてメスで切れない。ホリゾン(鎮静・催眠・安定剤)を点滴から追加。これが血管にしみる薬。またしても「痛い!」と叫ぶが、すぐに意識がなくなった。

「はたさん、切って正解だった!」という医師の叫び声で気がつく。間もなく産声が聞こえた。真っ黒に髪の毛が生えている。3450gの元気な男の子。

ばあちゃんが守ってくれた

初ひ孫の顔を見ずに急逝したばあちゃん。跡取り息子だよって、性別を教えてあげればよかった。ダーリンにも誰にも性別は教えていなかった。

陣痛監視モニターを装着した臍(へそ)の周囲は、子宮があまり収縮していなかった。けれど、子宮口のあたりだけは普通に強く収縮していたのだ。だから9cmまで開いた。もし、モニターを下腹部に装着したら、その痛さがわかったに違いない。でも、そんなことは絶対にされない。

息子は臍帯巻絡(さいたいかんらく)だった。へその緒が息子の首に二重に巻き付いていたのだ。だから、なかなか児頭が骨盤内へ下がってこれない。それを無理やり下から引っ張ったら、首吊り状態でアウト。運がよければ仮死産で助かるかもしれない。でも、障害が残る可能性が非常に高い。

だから「切って正解!」

なぜか子宮全体が陣痛促進剤に反応せずにいたお陰で、息子は助かった。ばあちゃんありがとう、と心の中でずっと繰り返していた。

おわりに

手術の翌日、普通はベッドごと病室へ移動するのだが、わたしは自分で歩いて行った。バケモノ呼ばわりされながら(笑)導尿のバッグを持って、点滴スタンドをカラカラと押しながら歩いた。

ようやく跡取り息子を生むという大役を果たしたが、今度は2人目攻撃が。「まだなの?」「一人っ子はカタワだよ」言う側はたまに1度だけかもしれないが、言われる側はウンザリするほどの頻度。

帝王切開しても、次は普通分娩できると意気込んでいた。年子で頑張る決意だった。しかし、いっこうに妊娠せず。あれよあれよと5年の月日が経ってしまう。そうして娘を授かったが、またしても帝王切開だった。しかも、切迫早産で寝たきりの末に緊急手術。

その話は、また後日。

ありがとうございます。

 

りょうこのつぶやきでした。

では、ごきげんよう。

画像元:臍帯巻絡とは?へその緒が首に巻きつく原因は?エコーで判断? - こそだてハック