コミュニケーションBLOG

文字によるコミュニケーションには、ブログをはじめ作文や感想文など様々な場面で「書く」技術が必要になってきます。難しく考えずに気楽に書いてみませんか?

執着心丸見えのブログって・・・

背中に羽根を付けた少女がクマのぬいぐるみを抱いて横になっているセピア色の写真

お客様に愛されるサロン、人気の教室になるための極意、なぁんていうセミナーや講座が大流行り。あなたも興味あるでしょ?

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自分の執着心から相手を操作する

お客様に愛されたい、みんなから引っ張りだこになりたい。そう強く願って必死に勉強する。でも、望む結果は得られない。

引き寄せの法則とか、潜在意識が導くとか、返報性の法則とか。一度は関心を持ったことがあるんじゃない?

都合のいいときは「そうかも!」と信じ、思い通りにならないときには「そうかな?」と疑う。

お客様にあなたの愛を届けるのではなく、あなたがお客様から愛(とお金)を搾取したい。そういう本音が心の奥底にある。

貪欲な執着心から生まれる欲望をかなえようとして、何とか相手を操作しようとする。

いくら言葉を飾っても、わざと煽(あお)って挑発しても、いっときは反応があるかもしれないけれど、結局は長く続かない。

あなたに誠意と魅力がないから、みんな離れていってしまう。残るのはお義理集団のみ。それもいつまで続くやら。

執着心は悪なのか?

執着をすべて手放すことが、かならずしもよいことだとは限らない。何かに執着することがプラスになる場合だってある。

人間は、生きることへの執着がなくなれば死んでしまうだろう。

「生きよう」とは意識しなくても、心のどこかに「死にたくない」という感情があるはず。それが、すでに「生」への執着だ。

ただ生かされるままに天寿をまっとうする・・・なぁんて境地には凡人はなり得ない。そんなこと、思いもしないだろう。

執着を強める「比較」

誰かと比較するから、よからぬ欲が出てしまうのだ。他人と比較するということは、自分の価値を他人の基準にゆだねることになってしまう。

「あの人は上手にできるのに、わたしはなんて下手くそ!」

そういうマイナス感情も、やっぱり自分も褒められたい、感謝されたいという賞賛への執着のあらわれ。

「相手のために」と心配りするのも、結局は自分が褒められたい、感謝されたい、もてはやされていい気分になりたいと欲する行動だったりする。そこには伝えるべき「心」や「思い遣り」は存在しない。

また、今はあなたが一番上手かもしれないけれど、必ずもっと上手い人が現れる。今が永遠に続くわけがない。スポーツの限界だって刻々と更新されているではないか。

ありがとうの感謝の気持ち

「せっかく〇〇してやったのに、お礼も言ってくれない」

そんな不満、一度や二度は経験したことがあるだろう。実は、わたしも「ありがとうと言ってくれなかった」ことを、けっこう根に持っているいじましい奴だ。Twitterでこっそり愚痴ってるしね(笑)

「あなたのために」頑張ったのに。たったひとこと「ありがとう」と言って欲しかった。別に頼まれたわけじゃなかったけどさ。

何かプレゼントをしたり、行動したことに対して「ありがとう」と言うかどうかは相手の勝手。あなたじゃなくて、相手が決める問題だから。

そこに執着すると、苦しくなる。だから、頑張った自分に自分が満足すればいいのだ。

そして、素直な感謝には嫌味がない。

執着心のセンサー

よく、成果報告のブログなんかで、どうにも「自慢」や「いやらしさ」を感じてしまうことがある。明らかに「集客」目的だとわかってしまうことも多い。

書き手の執着心が見えていて、「どうだ」「すごいだろう」と慢心している様は醜い。

こんな風に、わたしが「相手の執着心」を感じ取ってしまうのは、わたし自身のセンサーが反応している。

必ずしも、相手のブログによからぬことが書かれているとは限らないのだ。勝手に考え過ぎだとも思う。

そのセンサーは、わたしの中の価値観とか良心とかいろいろな基準がもとになっている。その中には「ひがみ」や「劣等感」も含まれているだろう。

また、どんなにあからさまに自慢していても、ぜんぜん嫌味じゃない場合もある。一緒にバンザイして素直に喜べる。

その違いは何だろう?

flowcare.hatenablog.com

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りょうこのつぶやきでした。

では、ごきげんよう。

アイキャッチ画像出典:あなたの執着やエゴを手放すことで、正しい選択ができるようになる